和気たけしの主張


災害大国日本の実態

 国が昨年8月に公表した南海トラフ巨大地震による震度分布、津波浸水域予測を受け、岡山県が独自に収集した地質データを追加し、より詳細な震度分布図と液状化危険度分布図が公表された。
 その資料によると、本市の場合、最も大きな影響は震度においては6強、液状化危険度が高い地域は平野部の殆どを占める。但し地震の発生頻度は極めて低いとされている。
 そもそも、わが国は世界屈指の自然災害大国であり、地震、津波、台風、水害、土砂災害、高潮、液状化などに国民は「いつ」「どこで」「いかなる自然災害」に見舞われるか全く予想がつかない環境下で暮らしていることを自覚しておく必要がある。
 だとすれば、行政はいかなる方法で地域を或いは市民の生命を守っていかなければならないか。



災害発生時に於ける地元業者の存在

 結論から申し上げれば、何時何処で起きても迅速な対応が取れる体制を敷いておくことにつきるのである。その要は、地元建設業者との連携の上に成り立つ。つまり、地域に健全な建設業者がいるかどうかが極めて大切なことであり、その存在なくして我々の暮らしや生命は守っていけないということだ。
 誤解している人が多いが、災害時に真っ先に駆け付け、救助活動の地ならしをするのは警察や消防ではない。ましてや自衛隊でもない。地元の建設業者の初期活動こそが我々の生死を分かつ鍵を握っていると言っても過言ではない。
 つまり、彼らには機材があり、それを扱える人材がいる。そして、地元の地理、地形に通じており、何よりも様々な構造物を直接手がけた人達なのだから当然といえば当然のことだ。
 しかし、前政権は「コンクリートから人へ」という、災害国日本にあるまじき間違ったメッセージを発し、公共事業そのものを無駄で不必要なものとし、建設業者を悪の権化のような扱いにし、貶め続けてきたのであった。果たして本当にそれでいいのか。



求められる入札制度の早急な見直し

 われわれの先人たちは、「適切な競争の下で建設会社が技術力を高め、そしてそれぞれの企業が何とか生き延びていく」、そして災害時には官民一体となって住民の安全を守るためどうすべきかという命題をクリアするため、「指名競争入札」という知恵を生み出したように思う。
 行政側が指名した業者のみが入札に参加できるようにすれば、受注した企業に「次の工事にも入札に参加できるよう、受注した工事を最高の品質で仕上げる」というインセンティブが働く。
 結果的に公共事業の品質が高まり、企業側の技術も磨かれる。現に、我が国の建設技術は世界屈指のレベルにあることも「指名競争入札」制度と無関係ではない。
 現在は、少しでも安い方がいいという一般競争入札という制度で行われている。参加資格はあるものの、誰でも参加できる仕組みと言っていい。その結果激しい価格競争を招いており、体力のない業者から倒れていくことになる。



健全な地元業者は必要不可欠

 今建設業が減り続けているが、世界屈指の災害大国において建設産業はどうあるべきか、同じように、建設コンサルタントの存在も災害復旧時に欠かせないものなのだ。こうした業務も併せて入札制度を根本から考えなければならない。
 ところが、本市の入札制度は、一般的に、他の自治体に比べ著しく市内業者にとって辛い制度である。つまり、地元業者を保護・育成する視点が全く欠けている。
 その結果、何が予想されるかと言えば、災害時には市外業者は自分の地元を優先するためあてにならない。地元業者は廃業しているので直ちに対応できない、といったことが起こりうるのだ。地元業者優先の仕組みを、少なくとも他都市並みにしなければならない。さらに言うと、地元に健全な業者を残す最も有効な制度は、指名競争入札制度の復活なのだ。



閉校して54年
今小学校跡地記念碑建立の募金活動始まる


  旧御津郡今村は、昭和27年に岡山市に合併し、昭和34年に今小学校は小規模校である白石小学校と合併し、西小学校が創立されました。旧今村のコミュニティの中心地であり、歴史と伝統を受け継いできた今小学校が廃校となったのです。
 その後、急激な都市化の進展とともに児童数は急増し、数年後には大元、綾南が新設され、一部の地域が分離されました。更に増え続け御南への分離となり、現在の姿となったのです。僅か十数年先が見通せない為政者の先見性のなさは誠に残念です。
 そもそも、地域にとって小学校が無くなる、卒業生として母校が消えることは実に寂しいことです。通常ならば、たとえ廃校になったとしても、歴史から消え去ることのないように、跡地に石碑などのモニュメントを残すものです。現在、北区役所維持管理センターになっていますが、そうしたものは何もありません。
 閉校して54年、こうした経緯を知る人も高齢化する今、その事実が地域から消え去ろうとしています。何とか後世に伝えるため、痕跡を残しておくべきとの思いからこの度、世話人会(林克也会長)が立ち上がり、記念碑の建立(揮毫は黒住宗晴教主に依頼予定)に向けて募金活動がスタートしました。
 私自身は、西小学校の第 1期の卒業生ですが、実質は今小学校ですべてを過ごした思い出の場所なので、進んで協力しないわけには参りません。
 今小学校を学舎とされ、廃校になった今も、母校として懐かしく思っておられる多くの皆様に声を掛けさせて頂き、初期の目的が達成できるよう努力させて頂く所存です。ご理解の上、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。



山田方谷の藩政改革から学ぶ
NHK大河ドラマ実現にむけ署名運動展開中


 今、地元岡山や岡山県出身の経営者らの実行委員会が組織し、平成27年を目標にNHK大河ドラマ放映の実現を目指し、百万人署名活動を展開しています。本市が深く取り上げられることはないかもしれませんが、確実に高梁市を中心に周辺地域の観光振興に結びつくものであり、岡山県全体の地域活性化に繋がるものです。 
 本会議に於ける私の質問に答える形で、谷市長は、岡山市としても本運動の支援を行う決意を明確に示されたので、期待を持って見守って参りたい。
 ご存じのように、山田方谷は、幕末に於ける陽明学者であり、財政破綻に陥った備中松山藩を見事に立て直した稀代の藩政改革者でした。藩主板倉勝静侯に乞われ元締役兼吟味役、今で言えば財務大臣を命ぜられます。大変な貧乏藩で借金は10万両、現在の額で言うと600億円あったと言われます。
 こうした厳しい状況を、僅か7年で鉄製品等の特産品の育成など、新しい時代の潮流に乗った産業政策を興し、10万両の借金を逆に蓄財10万両に転換させたのでした。
 今の日本の状況と当時の備中松山藩と酷似しています。即ち、財政赤字がふくれあがり、重税感で庶民は疲弊し、行財政改革が喫緊の課題でした。ともすれば目の前の収入・支出のバランスのみで解決を図ろうとしますが、単にそのことのみで解決できる問題ではないと察知した方谷は、教育、軍備、流通、公共事業など総合的に組み合わせ、藩そのものが信頼され、住民が夢を持ち、元気が出るような施策に取り組み、見事に藩政改革を成功に導いたのでした。
 今こそ、我々は山田方谷の「至誠惻怛」という改革理念とその手法を学ぶ為にも、NHK大河ドラマの放映を実現させなければなりません。皆様方には、ご署名活動にご協力を頂きますようお願いします。


                                                                                            市政報告第30号@へ
 
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